<全体集会での証(回復の途中経過)>2009.4
2008年12月、私の所属している登戸エクレシアキリスト教会にて、初めてのセレブレートリカバリー全体集会が譜開かれました。少し長いですが、そのときの証を一部加筆・修正して紹介させていただきます。

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私は、対人恐怖と引きこもりの問題と戦っているクリスチャンです。

私が神様と出会うきっかけになったのはゴスペルです。
当時、3歳と生後半年の小さい子ども二人を抱えていましたが、私は毎日いろいろなところへ出かけていました。 料理教室やパン作り、ヨガや親子体操、抱っこ法や子育ての学び、ゴスペルやパステル画などなど。教会に通うようになってからは、さらに小グループの学びや交わり、教会で行われる様々なイベントでの奉仕活動など。 スケジュール帳は、ちょっとした芸能人並?と思われるほど、いつでも予定がビッシリ書き込まれ、私に対する周囲のイメージは、活動的、社交的、外向的というものだったと思います。

私には、クリスチャンになる前からの友人で、同じ時期にクリスチャンになった人が何人かいます。その友人達と一緒に、教会でのいろいろなイベントに参加するのはとても楽しかったです。でも、クリスチャンになって1年2年と過ぎていくうちに、私は友人達と自分の違いに気づき始めました。
友人達はいつでも活き活きとしていて、神様との信頼関係もどんどん成長し、自分自身を活かす働きをしっかりと認識し、それぞれの特技を活かして活躍していました。
でも、私自身は、いつでも自分からせっせと出かけていくにもかかわらず、いつもグッタリと疲れて帰ってきました。礼拝に行っても、メッセージは私の頭の上を素通りていきました。聖書を読んでも、ちっとも御言葉が自分の中に入ってきませんでした。 「あなたは高価で尊い」という御言葉も、他の人に対しては「その通り」と思えるのに、自分自身についても当てはまるとは思えませんでした。 自分は神様の為にどんな働きができるのか、自分はどんなことをしたいのか、全くわからず、人の為に働けば働くほどむなしくなりました。 友人達が健康的に歩んでいるのを見るたびに、私は、何かが、何処かが、間違っているのだと感じずにはいられませんでした。

そんな中で、私はある出来事をきっかけに、鬱症状と引きこもりを発症しました。
その出来事は私自身の事ではなかったにもかかわらず、私はまるで自分自身の事のようにその苦しみを受け止め、打ちひしがれていました。
周囲の方々の働きかけも、沢山の仲間の祈りもむなしく、苦しい現実は全く変らず、苦しみが取り除かれないことに苛立ちと絶望を感じました。
丸1年間苦しい状況は続き、ある日突然、ピタッと状況は収まりました。
しかし、1年もの間苦しみを受け続けた心は、苦しみが取り除かれてもすぐに健康な状態に戻ることができませんでした。症状だけが治まっていても原因は取り除かれていなかった為に、いつまた状況が悪化するか、いつ問題が再発するか、いつもそのことに怯え、 不安を抱えて日々を過ごしました。

そして1年半後、やはり同じ苦しみが訪れました。1年半の緊張の糸がぷっつりと切れるように、私は発症してしまいました。

毎日毎日、朝から晩までその苦しみの事を思って悩み、苛立ち、心配と不安にとらわれ、ついに体調も壊し、外出することもままならなくなりました。
ストレスから夜中に「食いしばり」をしていて、毎日、朝起きると体全体がぐったりと疲れていました。

友人の紹介で漢方の病院に通い始めましたが、私の中で「これは体の病気ではなく、心の問題だ」と感じていたので、また別の友人の紹介でカウンセリングも受け始めました。 カウンセリングの中で、目の前の問題は単なる発症のきっかけであって、原因は私の心の奥底に昔からあった古い傷であったことを知りました。
実際、その問題を抱えている本人は、物心ついた時から教会学校に通い、自分は神様や神様の家族みんなに愛されているということをちゃんと知っているために、辛い状況を抱えているにもかかわらず、健康な心は完全に潰れてしまうことがないのでした。 でも、私は、自分が愛されている存在であるということを知りませんでした。それどころか、自分の存在価値をいつも疑っていました。自分が大嫌いでした。

カウンセリングを始めて丁度半年経ったころ、新しく始まったリカバリーのクラスに私も参加し始めました。 実はこのクラスの前に、この教会で初めてのリカバリーのクラスが始まった時、とても興味があったのですが、その時には参加する勇気がありませんでした。 心と体がはっきりとした症状を出してしまって初めて、自分には回復が必要だと深く理解し、行動に移すことができました。
また、前回のリカバリーを終了した友人が、リカバリーを始める前にはいつもうつむいて自信のない様子だったのに、リカバリーを通して自分を活かして働くことの出来る場所も見つけ、活き活きとして全く別人に生まれ変わったのを見ることも、リカバリーへの大きな期待につながりました。

毎週2時間、テキストに従って分かち合いを進めていくうちに、自分自身が抱えている問題について少しずつ理解できるようになりました。 いつも人の顔色をうかがい、人を喜ばせるために行動し、そのストレスで家族にはイライラをぶつけるという悪循環。社交的にみえていて、実は人を信頼することができず、恐れと緊張のゆえに疲労困憊するという図式も見えてきました。 リカバリーを始めたばかりのころは、回復に対する大きな期待で胸が一杯でした。でも、ステップが進むにつれて、回復への希望は、切なる願いと同時に「本当に回復できるのだろうか」という不安や疑いの気持ちの板ばさみとなり、とても苦しい時期がありました。「食いしばり」もピーク時には朝起きたときにあごが痛いほどでした。 それでも、ステップが進むにつれて、安心して話が出来る場所であるリカバリーの存在が大きくなり、ものすごく悲しい気分やうつ状態のときでも皆に会いたい、話を聞いてほしいという気持ちで通い続けました。

リカバリーの4冊のテキストのうち、3冊目の半分まで終ったところですが、私は、今でも体調や気分によって外出できないがあります。例の問題もまだ完全に解決したわけではないので、時々不安にとらわれることもあります。中には見かけるだけで緊張する相手もいます。「食いしばり」もまだあり、朝すっきり目覚めることがありません。私の対人恐怖との戦いは、現在進行形です。

でも、リカバリーを始めたばかりの頃と今の私では明らかに違うことが2つあります。一つは、人を恐れている弱い自分を受容できるようになった事、もう一つは、回復について「時間はかかるけれど必ず回復する」という確信を持てるようになった事です。
また、回復に対する考え方も変りました。 リカバリーを始めたばかりの頃は、変身モノのヒーローよろしく一瞬にして完全になる日を夢見つつ、「本当に回復できるのだろうか」という不安と焦りに苦しみ、朝起きた時にあごが痛いほどの「食いしばり」をした時期もありました。 でも、人間はこの世に生きている間に完全になることもなく、自分の力で回復することも出来ません。回復は、「回復したい」と言う気持ちを取り扱ってくださる神様の御業によるものであり、回復の道は天国に行く日まで続きます。

昨年9月から始まった9時礼拝での賛美奉仕のお話を頂き、神様の導きと信じてお引き受けしました。おかげで毎週礼拝に出席できるようになり、メッセンジャーを通して神様が私の心に語りかけてくださるようになりました。 また、私自身の変化を、息子を通しても体験しています。学習障害を持つ息子は、私のストレスの照準となっていた為か、夜寝ている時でも全身に力が入って硬直していましたが、最近は随分力が抜けているようになって来ました。
カウンセリングには、今はもう行っていません。リカバリーを通して、私自身を受容し、慰め、共に祈ってくれる仲間達を得たからです。リカバリーを理解し支えてくれる仲間は、お金を払わなくても関係が途切れることがなく、天国に行くまで共に歩んで行く事が出来ます。

二人はひとりよりもまさっている。二人の方が効果的に働けるからだ。どちらかが倒れても、もう一人が助けることが出来る。しかし、もし一人しかいなかったら、誰が助けてくれるだろうか。一人では打ち負かされてしまう相手でも、ふたりなら立ち向かうことが出来る」伝道者の書4:9-12

リカバリーを通して、回復の為の神様の導きと仲間を得ることができました。心から感謝します。引き続き、回復を目指して歩んでいきたいと思います。

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